『英国王のスピーチ』(2)
- 2019.01.07 Monday
- 20:30
(引用:『ハムレット』より)
1. アルバートにとっての
“To be or not to be”
2. ライオネル・ローグにとっての
“To be or not be”
Geoffrey Rush as Lionel Logue
俳優を目指す男として
『英国王のスピーチ』はジョージ六世の物語であると同時に、言語療法士ライオネル・ローグの物語でもある。彼の毎日はシェイクスピア作品からの引用で彩られている。例えば、エリザベスが夫の吃音を治療できる者を探し、偽名を用いてローグの診療所を訪れる場面がある。ローグ初登場の場面である。そこは診療所と言っても、他の患者の姿のないアパートの一部屋。エリザベスの呼びかけに答え、トイレから出てきたローグは、挨拶の前にシェイクスピアのセリフを引用している。(日本語訳は字幕より。ただし補って訳した部分をカッコ内に表記。”Shakespeare”は字幕では「シェークスピア」だが、正確な発音に合わせて、当講座内では常に“シェイ”としている。)
Elizabeth: Hello? Is anyone there?
Logue: I'm just in the loo.
Ah, Mrs. Johnson, there you are.
I'm sorry, I don't have a receptionist.
I like to keep things simple.
"Poor and content is rich and rich
enough."
Elizabeth: I'm sorry?
Logue: Shakespeare. How are you?
エリザベス: こんにちは。お留守?
ローグ: トイレです。
ジョンソン夫人。
受付係はなし。
物事は単純に。
“貧しくとも満足なら豊か。”
エリザベス: (何ですって?)
ローグ: シェイクスピアです。
ここで引用されている“貧しくとも満足なら豊か。”は『オセロー』3幕3場195行にあるイアーゴーのセリフ。イアーゴーは主人公の将軍オセローの下で旗手を務めている男。シェイクスピア劇の悪役の中でも、最も悪に徹した人物の一人である。彼はオセローに、妻デズデモーナが浮気をしているという偽の情報を巧みに伝え、嫉妬の炎を焚きつけて悲劇へと導いていく。引用されたセリフは、そのイアーゴーがオセローをだます際に使う表現で、心満ち足りずに嫉妬などに毒されませんように、と何かがある事を匂わせた言葉である。
ただしローグは単に名言として引用しているだけなので、作品の内容はこの場面には関係がない。むしろ上品とは言えない「トイレです。」からは窺(うかが)えない、彼の教養の一端を示すために用意されたセリフだろう。この映画の撮影前の段階では、同じ『オセロー』から、イアーゴーの別のセリフが引用されることになっていた。撮影前の台本を見ると、以下のようになっている。
Logue: "How poor are they that have
not patience! What wound did ever
heal but by degrees?"
Elizabeth: Pardon?
Logue: Iago...world's greatest villain.
Just wants to be bad.
Sorry, no receptionist.
―THE KING'S SPEECH,
written by David Seidler
(The Internet Movie Script Databaseより)
ローグ: “貧しきは、忍耐なき者なり!
傷は少しずつしか回復しないもの。”
エリザベス: 何ですって?
ローグ: イアーゴー、悪党中の悪党。
性質(たち)が悪い奴です。
すみません。受付もいなくて。
(2幕3場376行、拙訳)
上記の引用は、イアーゴーが友人のふりをしてロダリーゴという愚か者をだます際のセリフ。自虐的な弁明の引用としては分かりにくいし、吃音がすぐには治らないという隠喩を深読みするのも、行き過ぎだろう。確かに変更後の方が、シンプルで分かりやすい。
しかし、ローグのシェイクスピアと舞台への思い入れには特別なものがある。実在したライオネル・ローグはオーストラリア出身(1924年にイギリスに移住)で、母国で俳優活動をしていたこともあった。この事実を基に考えられた場面が映画にはある。それはローグが舞台のオーディションを受ける場面。彼は舞台でリチャード三世を演じてみせる。
リチャード三世もイアーゴーと同様に、シェイクスピア劇屈指の悪のキャラクターである。王位に就くためには、兄の暗殺を命令してしまうほど、欲望にまみれた男だ。このリチャード三世を演じる際に伝統となっているのが、片腕、片足に生まれつきの障害があり、奇形であることを異様なまでに強調する演技である。時には背骨が大きく曲がっている男として演じられる場合もある。(ジョージ六世もX脚を矯正するため、足にギブスをはめられ、左利きを右利きに指導させられたりしていた。)
(Left) Anthony Sher as Richard III © RSC
(Right) Kevin Spacey as Richard III © Old Vic
こうした演技の根拠となっているセリフが、劇冒頭のリチャードの独白の中にある。
この俺は、生まれながら五体の美しい均整を
奪われ、
ペテン師の自然にだまされて寸詰まりの
からだにされ、
醜くゆがみ、できそこないのまま、未熟児して
生き生きと活動するこの世に送り出された
のだ。
このおれが、不格好にびっこを引き引き
そばを通るのを見かければ、犬も吠えかかる。
(1幕1場8−13行、小田島雄志訳、白水社)
ローグも左手を胸の下あたりまで上げ、麻痺していることを見せて、独白を語り始める。
Logue: "Now is the winter of our discontent
Made glorious summer by this sun of
York..."
ローグ: われらの不満の冬もようやく去り、
ヨーク家の太陽に照らされ栄光の夏が
訪れた。
(『リチャード三世』1幕1場1-2行、拙訳)
「そこまで!」と客席の演出家から声がかかり、オーディションは不合格となってしまうが、なぜこのような場面が用意されたのだろうか。シェイクスピアと映画の関係に詳しいBardfilmというブログ(http://bardfilm. blogspot.com/)の執筆者KJ (アメリカのシェイクスピア研究者)によれば、『英国王のスピーチ』は“アンチ・リチャード三世”の映画として解釈できるという。つまり、『リチャード三世』は王位への欲望を露わにした男を描いた劇だが、『英国王のスピーチ』は王位を望まなかった男を主人公にしているという比較論である。
この解釈を基に再考してみると、映画『英国王のスピーチ』のテーマの一つは、上記引用にある「われらの不満の冬」になるのではないだろうか。『リチャード三世』の冒頭では、薔薇戦争による勝利によってヨーク家には「栄光の夏」が訪れ、イギリスは戦勝気分に酔いしれていた。しかしリチャードの「不満の冬」は終わっていなかった。彼はこの不満を解消すべき、手段を選ばす王座に近づいていく。これに対してアルバートの「不満の冬」は兄エドワードが王座から離れていこうとするにつれて大きいものになっていく。元々、ジョージ六世は社交的で人気があった兄エドワードに対してコンプレックスを抱いていた。それなのに兄が王位に向き合わず、そのツケが演説もまともにできない自分に回ってくる。それは「不満の冬」であると同時に吃音を伴った「不安の冬」であった。映画前半に映し出されている霧のロンドンは、その不安の心象風景のようにも見える。
ローグの役割はアルバートの吃音を直すことだけではなく、セラピストとして彼の不満、不安を解消することにもあった。王としての自信、自覚を芽生えさせて成長させていく役目である。例えば、戴冠式を前にしたウェストミンスター寺院でのリハーサル場面で、ローグは戴冠式用の椅子、聖エドワードの椅子に腰かけてしまう。ジェフリー・ラッシュが座っている姿は、案外リチャード三世に見えないこともない。いかにも座り慣れているかのように、我が物顔にリラックスして座っている様子が、ジョージ六世の王としてのプライドを刺激する。
ジョージ六世は「立て! 王座だぞ!」と怒りを露わにするが、「観光客も座るぞ。」と言ってローグは余裕の態度を見せるばかり。するとアルバートは、声を荒げて命令する。
Albert: Listen to me! Listen to me!
Logue: Listen to you? By what right?
Albert: By Divine Right, if you must.
I am your King!
Logue: No, you're not.
You told me so yourself.
You said you didn't want it. Why should I
waste my time listening to you?
Albert: Because I have a right to be heard!
I have a voice!
Logue: Yes, you do.
You have such perseverance,
Bertie. You're the bravest man I know.
You'll make a bloody good King.
ジョージ: 聞け!
ライオネル: なぜ?
ジョージ: 私は王だからだ!
ライオネル: 王はイヤなんだろ。
なぜ聞く必要が?
ジョージ: 私には 王たる“声”がある!
ライオネル: そうとも。あなたは忍耐強く
誰よりも勇敢だ。立派な王になる。
ローグは俳優というよりも、ここでは本番前の見事な演出家だ。続く場面では実際にジョージ六世とリハーサルをして、何をどう言うか、練習させている。考えてみれば、彼の吃音矯正にも演技指導のような要素があった。ローグは俳優としてロンドンでも活動したかったが夢叶わず、代わりに演出家として成功を収めたと言えるのかもしれない。事実、撮影前の台本には、二度目のオーディションを受け、最初と同じように相手にされない場面がある。そればかりでなく、落ち込んで妻に、オーストラリアで教師にでもなると言い出して、なだめられる場面もあった。「立派な役者になりたかった。それが夢だったんだ。」というセリフも用意されていたのだが、おそらく主筋に、より重きを置くためだろう。これらローグの場面はカットされている。
オーストラリア人として
ローグのオーディション場面には、もう一つの意味が込められている。それは彼がオーストラリア人であるということである。オーディションの演出家との会話を詳しく見てみよう。
Director: Thank you. Lovely diction, Mr...
Logue: Logue. Lionel Logue.
Director: Well, Mr. Logue, I'm not hearing
the cries of a deformed creature yearning
to be king. Nor did I realize Richard III
was King of the Colonies.
Lionel: I do know all the lines.
I've played the role before.
Director: Sydney?
Lionel: Perth.
Director: Major theater town, is it?
Logue: Enthusiastic. Ah. I was well
reviewed.
Director: Yes. Well, Lionel, I think our
dramatic society is looking for someone
slightly younger. And a... little more
regal.
演出家: ご苦労。いい発声だ。お名前は…
ローグ: ライオネル・ローグ
演出家: だがローグさん、王座を渇望する異形
の王の叫びが聞こえてこない。しかもリチャ
ード3世が植民地(オーストラリア)の訛(なまり)と
は。
ローグ: セリフは全部、知っています。
前にも演じた。
演出家: シドニーで。
ローグ: パース。
演出家: 演劇の中心地?
ローグ: ファンが多い。評価も高かった。
演出家: なるほど。だが、ライオネル、私が
思うに、ここの演劇界はもう少し若い役者
を求めている。もっと王に見える者を。
この場面では、吃音の準(なぞ)えになるような訛や、「王に見える者」という表現がジョージ六世の主筋に照射されている。しかし最も問題視されているのは、ローグがオーストラリア出身の移民であるということだろう。演出家の発言には、明らかに大英帝国の優越感に浸った排外主義が色濃く反映されている。
1924年、ローグが妻と3人の子供を連れてイギリスに移住してきたのは、大英帝国博覧会が開催された1925年の一年前。当時、オーストラリアは1901年にはオーストラリア連邦が成立し、自治領となっていたが、イギリス議会がオーストラリアの独立を正式に認めたのは1985年(実際の独立は1986年)だった。したがってローグにとっては、英国王の吃音を直すということが、英国での自己の存在価値を証明する戦いでもあった。オーストリア人ライオネル・ローグにとっての“To be or not to be”の戦いである。
こうしたローグの戦いが秘められた場面がもう一つある。それはローグが二人の息子たちとシェイクスピアのセリフの登場人物の名を当てるクイズをする場面。部屋でタイプライターを打っているローグに、10代前半に見える息子の一人が「“シェイク”やる?」(字幕より=Time for a Shake, Dad? =シェイクスピア・クイズする?)と話しかける。マニアックなゲームに思えるが、DVDのオーディオ・コメントによれば、この映画の監督のトム・フーパーも子供の頃、家族で楽しんでいたそうで、場面自体が元々脚本にないところからみると、監督の発案のようである。日本ならばさしずめ、百人一首といったところだろうか。それにしても“Time for a Shake, Dad?”とは、ローグ家では毎日のように行われていたような言い方である。
ローグはいったん廊下に出て、部屋のドアから横に頭を出して登場。だが「あんた怖いのか? 怖がるな」と始めただけで「キャリバン」と当てられてしまう。「いいから続けて。」と息子に言われて、ローグはキャリバンの演技を続ける。
キャリバンはシェイクスピア晩年の代表作の一つ『テンペスト』の登場人物の一人。『テンペスト』では、権力の座を弟に追われた元ミラノ大公の主人公プロスペローが、一人娘と共に孤島にたどり着いて暮らしている。その島に以前から住んでいたのがキャリバンで、野蛮で奇形な怪物のような男である。
ローグが引用するのは、この島に新たに上陸してきた一味と酒を飲んで酔っ払ったキャリバンのセリフ。ここで彼は、島は怖いどころか、楽しいところだと島の素晴らしさを語っている。実際には、途中でローグが演技を止めて「この続きは?」と子供に暗誦させていくのだが、ここでは原文のみを掲載する(翻訳は字幕より)。
Be not afeard; the isle is full of noises,
Sounds and sweet airs, that give delight
and hurt not.
Sometimes a thousand twangling
instruments
Will hum about mine ears, and sometime
voices
That, if I then had waked after long sleep,
Will make me sleep again: and then,
in dreaming,
The clouds methought would open and
show riches
Ready to drop upon me that, when
I waked,
I cried to dream again. (III.ii.138-46)
怖がるな。この島は物音、
歌声、音楽でいっぱい。楽しいことばかり。
時には何千もの楽器や
歌声が聞こえてきて、
ぐっすり眠った後でも
また眠くなる。夢を見ると、
雲が割れ、宝物が俺の上に
降ってきそうだ。
目覚めたくない。
野蛮な怪物にしては、ずいぶんと詩的なセリフだが、朗誦が終わるとローグは「哀れだな。」(That's such a sad thought.)と言い捨てる。これは『テンペスト』という作品の知識がないと言えない一言である。ポストコロニアル論的に見れば、島は植民地でキャリバンは原住民。エメ・セゼールの書いた翻案劇『テンペスト』(1969)では、キャリバンは黒人奴隷で白人に反旗を翻そうとする。2010年のジュリー・テイモアによる映画化でも、キャリバンは黒人俳優ジャイモン・フンスーによって演じられていた。
Djimon Hounsou as Caliban
ローグの立場に当てはめれば、「リチャード3世が植民地(オーストラリア)の訛(なまり)とは。」という演出家の排他的発言にあるように、オーストラリア対大英帝国という構図が見えてくる。映画化前の台本では、キャリバンのセリフは再オーディションの場面で引用されており、しかもそこでは演出家が登場人物を指定している。
Logue: Caliban?
Director: Make him deformed.
Audiences like that.
Logue: Of course. (rallies himself)
"Be not afeard…”
ローグ: キャリバンを?
演出家: 醜く演じてくれ。観客に受ける。
ローグ: お任せを。(気合を入れて)
“怖がるな…”
結局、この後に制止されて、オーディションを落ちてしまうローグ。またしても「不満の冬」である。実際の映画ではカットされてしまったが、脚本家や監督が意図的にシェイクスピアを使っているのは明らかだ。英国における彼の存在意義は、俳優としてではなく、言語療法士としてのものに絞られていく。そしてその成果が問われるのが、英国王のスピーチなのだ。ここにライオネル・ローグの“To be or not to be”のドラマがある。
講座:映画の中のシェイクスピア
第6回
国王のための名セリフ
『英国王のスピーチ』
<目次>
(引用:『ハムレット』より)
1. アルバートにとっての
“To be or not to be”
(引用:『ヘンリー五世』より)
2. ライオネル・ローグにとっての
“To be or not be”
(引用:『オセロ』『リチャード三世』より)
(引用:『テンペスト』より)
3. ジョージ六世としての"To be or not to be"
講座:映画の中のシェイクスピア
第1部: 映画で引用されるシェイクスピア
講師:広川 治 <全12回>
⇒ 講座予定(目次)
- シェイクスピア
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