映画の中のシェイクスピア (第1回)
- 2018.04.01 Sunday
- 20:00
第1回
シェイクスピアってヤバくない?
2018年2月、平昌(ピョンチャン)・オリンピック。羽生結弦選手の2大会連続金メダル獲得、カーリング女子の銅メダルを受賞など、日本は数々の名場面に沸きに沸いた。そのオリンピックの閉会式でのこと。五輪組織委員会のイ・ヒボム会長が次のようにシェイクスピアを引用して閉会のスピーチを始めていた。
「会者定離(えしゃじょうり)のことわざのように、出会いには必ず別れがあります。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』では、(ジュリエットが)「別れはこんなにも甘く切ない」と言いました。別れは名残惜しくもありますが、我々は2018年平昌オリンピックを大事な美しい思い出にしていきます。」(NHK同時通訳より)
「別れはこんなにも甘く切ない」(Parting is such sweet sorrow.) というのは、ロミオとバルコニーで語り明かしたジュリエットが別れ際に言うセリフである(2幕2場184行)。ここでの別れというのは、永遠の別れという意味ではないので、ひと時のさよならの悲しみに、甘い恋の喜びがにじんでいる。シェイクスピアの論文を書いたり、大学の授業で取り上げたりしていると、作品からの引用に敏感になっていて、思わず耳をそばだててしまうことがある。このようなスピーチはもちろん、ごく普通の映画を観ていても、登場人物がシェイクスピアのセリフをちょっと引用して何かを言うと、つい専門家の頭に戻ってしまう悪い癖がある。引用に監督の深い意図が何かあるんじゃないか、この先にシェイクスピアの劇と重なるテーマや展開が用意されているのでは…等々、大抵はそこまで深読みする必要はないのだが、中には映画のテーマやメッセージに関わる重要なメタファー(隠喩)として用いられている場合もあるので、一概に無視はできない。
この講座では、シェイクスピアの戯曲と映画化作品の違いを比較するのではなく、コメディ、ラブ・ストーリー、サスペンス、SFなど、様々なジャンルの映画で引用されているシェイクスピアのセリフや場面、あるいは作者“シェイクスピア”への言及に注目してみたい。ではどのような作品でどのように引用、言及されているのか。まず初回は多様な引用の例を以下の映画に概観してみたい。カッコ内の題名が言及、引用されているシェイクスピアの作品名である。
(“シェイクスピア”/ジュリエット/マクベス夫人/リア)
(『ロミオとジュリエット』)
(『ジュリアス・シーザー』/『夏の夜の夢』)
『雨に唄えば』
まず初めに、映画の中でシェイクスピアという名前や作品への何気ない言及がある例として、ハリウッド黄金期のミュージカル・コメディ『雨に唄えば』(Singin’ in the Rain, 1952)を見てみたい。ミュージカル俳優のジーン・ケリーが傘を手にして雨の中歌い踊る場面が有名だが、コメディ映画としても優れていて、映画業界の裏幕を面白おかしく見せてくれる。アメリカ映画協会がミュージカル映画史上のベスト25のベストワンに選んでいる傑作である。
主人公はドン・ロックウッドというサイレント時代の映画スター (ジーン・ケリー)。彼は女優志願のキャシー(デビー・レイノルズ)と出会い、恋におちる。だが最初は仲が良くなく反発し合うのが、ラブ・コメディの常套手段というもの。キャシーは言葉を伴わないスクリーンの演技をバカにして「セリフを聞かせてこそ演技というものよ。シェイクスピアとかイプセンとか」と強く出る。
"Acting means great parts, wonderful
lines, speaking of glorious words,
Shakespeare, Ibsen."
すると負けじとばかりドンは、シェイクスピアの登場人物の名を口にして、まだ売れない女優のキャシーにやり返す。
ドン: 君がブロードウエイで舞台女優? 楽しみだね、君の評判を聞ける日が。キャシー演じるジュリエット、マクベス夫人、それにリア王。もちろんヒゲをつけなきゃダメだ。
(Don: Oh, you're going to New York and
then some day we'll all hear of you, won't
we? Kathy Selden as Juliet, as Lady
Macbeth, as King Lear. You'll have to
wear a beard for that one, of course.)
この時は見事にやり返したつもりのドンだったが、皮肉な事に映画はトーキーの時代を迎える。映画に音声が開発され、俳優にとってセリフが重要なものになってしまうのだ。ドンの共演相手の人気女優の声が笑えるほど裏返ったものだった事から、新人女優のキャシーが影の吹替として起用される。キャシーは持ち前の演技力を発揮して、映画は破綻をきたす事なく無事公開となる。観客はあくまでも女優本人の声だと思って観ているので、キャシーはあくまでも縁の下の力持ちでしかない。とは言え、結局「セリフを聞かせてこそ演技」と言っていたキャシーは正しかった事になるのだ。
さらにこの映画では、シェイクスピアの名前が登場する場面がもう一か所ある。それはミュージカル・ナンバーの一つ「みんなを笑わせよう」(Make’em Laugh)の歌詞の一節。この歌ではコズモというドンの友人が「シェイクスピア役者では批評家にほめられても食べていけない」(♪ Now you could study Shakespeare and be quite elite. And you charm the critics and have nothin' to eat. )。だから役者になるなら大衆に受ける喜劇役者が一番と歌い、踊りまくる。
ドナルド・オコナー (♪ Make'em Laugh)
ここでドンの友人を演じているのがドナルド・オコナー。その軽やかな身のこなしとおかしな表情は圧巻で、ミュージカル映画史上、最もコミカルな場面かもしれない。ただし一応弁護しておくと、シェイクスピアの作品が笑いに無縁なわけがない。大抵の喜劇には必ず大爆笑となりうる場面も用意されている。『夏の夜の夢』の職人ボトムが妖精のいたずらによって、頭がロバの男に変身させられてしまう場面、あるいは『十二夜』で執事のマルヴォーリオが偽のラブ・レターにだまされ、手紙の指示通りの恰好(黄色い靴下に十字の靴下止め、にやけた表情)で登場する場面、等々…。悲劇でさえ皮肉やジョークを言う役があり、結構観客を笑わせるものである(『ハムレット』の墓掘りや『リア王』の道化など)。
『十二夜』の黄色い靴下と十字の靴下止めの場面は、YouTubeでロンドン・グローブ座カンパニーの公演映像を見る事ができる。17世紀の劇場を再現した木造劇場の舞台で、当時と同じように全員男性で『十二夜』を演じている。執事マルヴォーリオの豹変ぶりに驚くのは、彼が仕える女主人である伯爵家の令嬢オリヴィア。演じているのは初代グローブ座芸術監督だったマーク・ライランスである。このカンパニーはブロードウエイでも公演し、マーク・ライランスはトニー賞を受賞。その後スティーブン・スピルバーグに抜擢されて『ブリッジ・オブ・スパイ』に出演。トム・ハンクスを相手にロシアのスパイ役を好演し、アカデミー賞助演男優賞を受賞している。
爆笑場面だけがシェイクスピア喜劇の面白さではないが、大衆の笑いを引き出している恰好の例として、このグローブ座カンパニーの映像をYouTube でぜひ味わってほしい。高尚な劇作家としてその名を引用されることも多いが、『雨に唄えば』の300年以上も前に、シェイクスピアは現代の観客を笑わせる劇を書いていたのである。果たして日本の学生が観ても「シェイクスピアってマジ、ヤバくない?」(アメリカ人ならAwesome!)と思うだろうか、あるいは「めちゃ笑える!」だろうか。『十二夜』は日本でも繰り返し上演されてきたが、2018年4月には演劇集団円(演劇集団円ホームページ参照)が上演する予定である。
スティーブン・フライ(マルヴォーリオ)
マーク・ライランス(オリヴィア)
<注釈>
アメリカ映画協会
アメリカ映画協会 (American Film Institute)は、オールタイムのベストを各ジャンル別および総合で選出している。2002年に発表されたのはミュージカル・ベスト25。個人的には『メリー・ポピンズ』『サウンド・オブ・ミュージック』『マイ・フェア・レディ』『ヘアスプレー』『レ・ミゼラブル』『ラ・ラ・ランド』あたりはぜひベスト25に入れたいところ。順位はともかく、他に自分が選ぶとしたら、『南太平洋』『ウエストサイド物語』『シェルブールの雨傘』『スウィート・チャリティ』『キャバレー』『屋根の上のバイオリン弾き』『ジーザス・クライスト・スーパースター』『コーラスライン』『美女と野獣』『シカゴ』『ドリーム・ガールズ』『オペラ座の怪人』『マンマ・ミーア!』『プロデューサーズ』『アクロス・ザ・ユニバース』『魔法にかけられて』『塔の上のラプンツェル』『アナと雪の女王』『グレイテスト・ショーマン』あたりだろうか。
→ AFI's 25 greatest Movie Musicals of All Time
ヘンリック・イプセン (1828-1926) は近代演劇の父と称されるノルウェーの劇作家。19世紀の既存の道徳観念を超えた新たな生き方を作品に綿密に描きこみ、社会に波紋を投じた。代表作は、幸福な家庭の妻という役割を与えられていた女性が、自立した存在として新たに生きようとするまでを描いた『人形の家』(1879)。日本でシェイクスピアの次に、上演回数が多いのは、チェーホフかイプセンだろう。最近の上演には、2017年12月の『ペールギュント』(世田谷パブリックシアター/浦井健治主演)、2018年4月の『ヘッダ・ガブラー』(シアターコクーン/寺島しのぶ主演)、2018年5月の『人形の家』(りゅーとぴあプロデュース/北乃きい主演)などがある。
ジュリエット(『ロミオとジュリエット』)は14歳という設定なので、やはり清純派の若手女優が映える役。アメリカの映画化では、オーディションで選ばれたクレア・デインズがレオナルド・ディカプリオのロミオを相手に演じ(1996)、日本の舞台では1986年に、南果歩がジュリエットを演じ (ロミオは真田広之)、佐藤藍子が大沢たかおのロミオを相手に(1998)、石原さとみが佐藤健のロミオを相手に(2012)、ジュリエットを演じている。マクベス夫人(『マクベス』)は主君を暗殺する将軍を手助けする妻という怖い役どころなので、演技派女優の迫力がひしひしと伝わってくる事が多い。かつてはジュディ・デンチがロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの舞台で(1976)、日本では、麻美れい(1987, 89)、大竹しのぶ(2001, 02)など。リア王は娘に裏切られる老王だが、男女の性別を超えた表現に長けたベテラン女優が演じる事もある。昨年イギリスでは、70年代に映画女優としてその名を世界に知られたグレンダ・ジャクソンが25年ぶりに舞台に復帰。81歳にしてこの大役を演じて、イブニング・スタンダード賞の女優賞を受賞している。
「ヤバい」が「危険」「不都合」の意味だけでなく、「すごい」のような意味としても使われてきているように、“awesome”も元々は「恐ろしい」「畏敬の念を起こさせる」という意味だったが、アメリカの俗語では「すごい!」「ヤバッ!」というような意味でも使われている。ただしイギリス人の中には好ましくないと思う人もいるようだ。アメリカ映画『ジュリエットからの手紙』(2010)では、主人公のアメリカ人、ソフィー(アマンダ・セイフライド)に対して、ケンブリッジ出身の若い弁護士チャーリーが、「正直言って、“スゴイ”とか“ヤバい”なんて言葉を使う女性、祖母は関心ないと思うけどね」(I honestly think she has no interest meeting a woman that can manage to jam, “Oh, my God” and “awesome” into the same sentence.) と皮肉っぽく嫌悪感を表わしている。ちなみに『ジュリエットからの手紙』は『ロミオとジュリエット』の舞台、イタリアのヴェローナを中心として展開する現代のラブ・ストーリー。観光名所となっている“ジュリエットの家”から物語は始まり、バルコニーで愛を語るロミオとジュリエットをパロディーにした場面もある。
『エレファント・マン』
次は、映画の中でシェイクスピアの一場面が朗読される例。『エレファント・マン』(The Elephant Man, 1980)は、19世紀末、身体に異常をきたした奇形児として育ち、見世物小屋で「象男」として見世物にされていたジョン(ジョゼフ)・メリックという実在の青年が主人公。ジョンは高名な外科医に保護され、世間の同情と関心を集め、一躍有名人となる。すると慈善活動に熱心だった舞台女優、ケンドール夫人(アン・バンクロフト)が彼を訪ねてきて『ロミオとジュリエット』の本をプレゼントする。本を開いたジョンはロミオのセリフを朗読し始め、ケンドール夫人はジュリエットのセリフを暗誦する。場面は舞踏会でロミオがジュリエットの手を取る二人の出会いの場(注1:1968年の映画『ロミオとジュリエット』参照)である。
ロミオ 僕の卑しい手が
聖者を汚したのが罪なら
僕の手が行った粗野な振る舞いを
顔を赤らめた巡礼である
僕のくちびるは
優しい接吻で補おうと、待ち構えている
ジュリエット 巡礼さん、
それはひどい扱い
それは敬虔な心の表れ
聖者の手は巡礼が触れるもの
手のひらを重ねキスを。
(ロミオ: 聖者も巡礼も唇があるはず。
ジュリエット: 巡礼さん、
くちびるはお祈りのために)
ロミオ: 聖者よ、
それならば手のひらでなく
唇でキスを。お祈りします。
信仰が絶望に変わらぬように。
*引用は映画字幕より。カッコ内の2行は、映画では省略されているので補って翻訳した。
この朗読が終わると夫人は優しくジョンの頬にキスをして言う。「あなたはエレファント・マンなんかじゃない。あなたはロミオよ」。ジョンの目からは思わず一筋の喜びの涙が流れ出る。
ケンドール夫人はジョン・メリックと同様に19世紀に実在した女優。マイカル・ハウエル、ピーター・フォード著 『エレファント・マン - その真実の記録』(本戸淳子訳、角川書店、1981)によれば、夫人はジョンと実際に交流をあり、互いに贈り物も交換し合っていたという。ただし『ロミオとジュリエット』の本を贈ったかどうかは定かではない。ジョンは聖書を暗誦したり、本を読むのが好きだったようで、映画でも文学や芸術を愛する青年として描かれている。
ジョン・メリックを主人公にした作品には、映画の他に、バーナード・ポメランスのよる戯曲『エレファント・マン』(1977初演)がある。ただし映画はこの戯曲の映画化ではなく、監督のデヴィッド・リンチを含む複数の脚本家によるオリジナル脚本によるものである。戯曲にもケンドール夫人がジョンを訪ねる場面があるが、『ロミオとジュリエット』は朗読される事はない。ただし二人の間で作品は議論の対象となっている。ロミオが劇の終幕で自殺してしまうのは、彼女への愛よりも悲劇的な恋愛という自分の幻に惑わされたからで、それは自己愛だという趣旨の解釈をメリックは論じる。映画に比べると、戯曲版のメリックの方が、より知的で議論を好み、鋭い感受性を持った人物として描かれている。その結果、彼には平凡な人物には見えない、愛や優しさの虚構が見えてしまうのである。⇒ 注2:戯曲版『エレファント・マン』からの引用
映画では終盤に、夫人がジョンを劇場に招待する。そこで上演されるのはシェイクスピアではないが、舞台をジョンは楽しみ、彼が幸福な余生を送った余韻を響かせて映画は終わる。戯曲版では、ジョンの孤独を際立たせる話題として『ロミオとジュリエット』が使われ、映画『エレファント・マン』では、逆にシェイクスピアの言葉は、生きる喜びを知るきっかけのセリフとして使われている、という大きな違いがある。
シェイクスピア作品の朗読が主人公の生き方、考え方に深く関わっている映画は他にもいくつかあるが、その中に『顔のない天使』(The Man Without Face, 1993)というメル・ギブソン主演の映画がある。父親を亡くし、母親が離婚と再婚をくり返してばかりで、心の拠り所を失った少年が村のはずれに住むマクラウドという男と出会う。マクラウドは事故で顔半分にひどいやけどの跡が残っており、村の人々は彼を怪人とまで呼んで疎んじていた。だがマクラウドは少年に家庭教師として、勉強はもちろん生きていくうえで大切な考え方も教えていき、疎外されていた二人の交流が深まっていくという物語である。
マクラウドが少年に教えたものの一つにシェイクスピアがあった。映画には『ヴェニスの商人』を二人で朗読する場面がある。朗読されるのは、4幕1場の裁判の場面。マクラウドがシャイロック、少年がヒロインのポーシャを朗読する。この場面で『ヴェニスの商人』が選ばれているのは、ユダヤ人であるシャイロックがキリスト教社会で疎外された存在として解釈されうるからだろう。シャイロックは借金の返済を証文通りに要求し、返済できなかったのだから胸の肉1ポンドをもらうと裁判で強く要求する。本来は喜劇の中の悪党役とすればいいのだが、現代的な視点からはユダヤ人の悲劇として解釈、演出される事も少なくない。明らかにマクラウドは自分とユダヤの商人とを重ね合わせて読んでいる。少年はこの時点では、彼の疎外感まで察する事はできないが、コミック版の『マクベス』を読んだり、シェイクスピアに強い関心を示すようになる。ただし物語はこの朗読場面を境に人間のより深い内面に入っていく事になるのである。
<注1> 映像で見る『ロミオとジュリエット』
『ロミオとジュリエット』を初めて観るならば、原作劇をみずみずしい感性でロマンティックに演出したフランコ・ゼフェレッリ監督による映画化(1968)が最適。DVDや配信で、または出会いの場だけならYouTubeで味わえる。
<注2> 戯曲版『エレファント・マン』
以下がバーナード・ポメランスの戯曲でメリックとケンドール夫人が『ロミオとジュリエット』について語る場面。ケンドール夫人がジョンに「読書好きだそうね」と尋ねてからの会話である。
メリック 今、『ロミオとジュリエット』を読んでいるんです。
ケンドール夫人 あぁ。ジュリエット。すばらしいお話ね。私、恋物語が大好き。
メリック ぼくも恋物語が一番好きです。もしぼくがロミオだったら、どうすると思いますか?
ケンドール夫人 どうするの?
メリック 鏡をかざして、彼女の息を調べたりしない。
ケンドール夫人 ジュリエットが死んだように見えたので、鏡をかざして息を調べるという場ね、それで鏡には…
メリック 何も映らない。どんな気がします? ただ何も見えないからって、彼が自殺するところ。(…中略…) ロミオは脈をとってみますか? きちんと確かめますか? いいえ。自殺するだけだ。彼女のことをきにかけていないから、幻にだまされるんです。彼が考えているのは、自分のことだけ。もしぼくがロミオだったら、きっと、二人で逃げ出したでしょうね。
ケンドール夫人 でも、そうしたらお芝居にならないわ、メリックさん。
メリック もし愛していなかったのなら、なぜお芝居にする必要にあるんです? 鏡をのぞいて、何も見えない。それは愛じゃない。かってに見ていた、幻だったんだ。幻が消えたら最後、自殺しなくてはならなかった。
(山崎正和訳『エレファント・マン』河出書房新社、1980、p. 52-54)
『戦場のメリー・クリスマス』にも出演した歌手・俳優のデイヴッド・ボウイがメリックを演じたブロードウエイの舞台の映像がYouTubeにアップされている。この作品ではメイクアップなどでメリックの顔を再現せず、俳優が身体の動き方と話し方で奇形を表現する。ここではト書きには指定がないが、メリックは読んだ『ロミオとジュリエット』の本を手にしている。参考までに日本では、市村正親(1981, 劇団四季)、藤原竜也(2002, ホリプロ)らがメリックを演じている。
『いまを生きる』
登場人物の生き方にシェイクスピアが深く関わってくる作品と言えば、やはり『いまを生きる』(Dead Poets Society, 1989)だろう。今は亡きロビン・ウィリアムズが教師を演じた感動的な青春映画である。彼が教師キーティングは、就任後の最初の授業の中で、これからシェイクスピアを勉強すると話す場面がある。すると生徒たちのいかにも嫌なリアクションが表情とため息で伝わってくる。英米の学生にとって、シェイクスピアは古典の授業であり、17世紀のイギリスの英語は注釈なしでは理解しずらい。したがって苦痛で退屈だと思うのも無理はない。ただしこの映画のキーティング先生は、シェイクスピアのセリフの一節を俳優のものまねで演じてみせ(注1)、生徒たちの興味を引き付けている。映画俳優になる以前はスタンド・アップ・コメディアンで、実際にものまねを得意としていたロビン・ウィリアムズらしい、おかしな場面である。キーティング先生は思いのままに今という時を精一杯生きろと生徒たちを鼓舞し、文学作品の面白さを生徒たちに熱っぽく教え始める。すると生徒たちは先生の影響を受けて、この世を去っても、その言葉が今も生き続ける詩人たちの作品に関心を持ち、仲間で集まって朗読し合うようになる。これが「死せる詩人の会」で映画の原題となっている。
(写真上) ロビン・ウィリアムズ
そんな中、特に強く先生に感化された生徒の一人が『夏の夜の夢』の舞台の発表会で妖精パックを演じる事になる。パックはいたずら好きの妖精だが、劇を締めくくる口上も述べる重要な役。彼は観客への挨拶を兼ねた最後のせりふを生き生きと語り、観客から拍手喝采を浴びる。ここでは束の間ではあるが、シェイクスピアを演じる事が“いまを生きる”喜びの一つとして描かれている。
『夏の夜の夢』5幕1場より (パック)
われら役者は影法師、
皆様がたのお目がもし
お気に召さずば ただ夢を
見たと思ってお許しを。
(…)
それでは、おやすみなさいまし。
皆様、お手を願います、
パックがお礼を申します。
(小田島雄志訳/白水社)
以下、映画の後半に起こる意外な展開についてふれていくので<ネタバレ注意>である。今、束の間という言い方で生きる喜びの例を説明したが、この学生は上演後に、医学校への道を息子に課している厳格な父親に演劇を禁じられて、上演後に退学を言い渡され、悲しみのあまり自殺してしまうのだ。映画の観客にとってもこれは「いまを生きる」喜びから厳しい現実に戻されてしまう悲しい場面である。この映画をはじめ『レナードの朝』『パッチ・アダムス』『グッド・ウィル・ハンティング』など、多くの映画でヒューマンな感動を与えてくれたロビン・ウィリアムズも後年、病気を患って思い悩み、2014年に自らの手で命を絶ち、帰らぬ人となった。改めて『いまを生きる』を見直すと複雑な思いにかられるが、どんな形にせよ、人の生きる先にはどこかで死が待っている事は否定できない。
西洋の概念にラテン語の“memento mori”という言葉がある。「死を思え」という意味のこの表現は、キリスト教では来世の天国と地獄を思うための言葉となったが、元々は死を強く意識することによって生を再認識し、今あるこの時を大切にする思想を表わした言葉だった。ラテン語の別の表現には“carpe diem”(今を生きろ)という言い方もあり、キーティング先生もこの表現を引用し、英訳したメッセージを “Seize the Day.”(今を生きろ) と生徒たちに伝えていた。
シェイクスピアの作品に基本精神のようなものがあるとすれば、それはやはり「いまを生きる」という考え方ではないだろうか。悲劇では主人公をはじめとして、多くの登場人物が命を落とすが、観客に絶望してもらおうと思って、シェイクスピアは作品を書いたわけではないだろう。非道な行為や絶望的な状況を前にして、客観的に人間を理解し、今ある生き方や世界を見直すという事が、作品を読んだり、舞台を観たりする意義なのではないか。喜劇でも、死と隣り合わせの危機的な状況や辛い思いは常に作品に描かれている。だからこそ、生きる事を貫いた恋人たちの結婚で終わるエンディングに、見る者の気持ちは高揚するのである。
〈注1〉 ロビン・ウィリアムズの物まね
最初は“O Titus, bring your friend hither.” (タイタスよ、お前の友をここへ連れてくるがよい)というセリフだが、これは『タイタス・アンドロニカス』第5幕第3場にあるサターナイナスの“Go fetch them hither to us presently.”を言い換えたもののようである。ただしこのセリフは俳優のまねではなく、あえて英国の舞台俳優風の言い方をしてみせ、前振りにしている。ものまねとして引用するのは『ジュリアス・シーザー』のアントニーが群衆に勢いよく語りかける有名なスピーチの冒頭「友よ、ローマの市民よ、国民よ、耳を貸してくれ。」(Friends, Roman, countrymen, lend me your ears.)という一節。ロビン・ウィリアムズはこのセリフを映画『ゴッドファーザー』(1971)でマーロン・ブランドが演じた年老いたマフィアのボス風に言ってみせる。和訳であえて表現するとしたら、「友よ〜、ローマのしみんよ〜、コクミンよ〜、みみを貸してくれんかの〜」と言ったところか。日本なら志村けんのバカ殿だと思えばいい。次が『マクベス』の「目の前に見えるのは短剣か?」(Is this a dagger I see before me.)というセリフ。これをジョン・ウエインが演じる西部劇のガンマン風に「クソっ!目の前に見えやがるのは短剣かよ!」といった感じで言い放ち、学生たちに受けている。
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