『ウィズネイルと僕』
- 2018.09.09 Sunday
- 21:00
第5回
俳優たちの『ハムレット』
〜『ウィズネイルと僕』
『世にも憂鬱なハムレットたち』〜
<目次>
1. 『ウィズネイルと僕』
2. 『世にも憂鬱なハムレットたち』
1. 『ウィズネイルと僕』
Withnail and I (1988, イギリス)
監督・脚本: ブルース・ロビンソン
出演:ポール・マッギャン(マーウッド)
リチャード・E・グラント(ウィズネイル)
リチャード・グリフィス(モンティ叔父さん)
ラルフ・ブラウン(ダニー)
マイケル・エルフィック(ジェイク)
マーウッド/“僕”(左)とウィズネイル
ハムレットを演じるということ
俳優にとってハムレットを演じるということは、成功の証であるかもしれない。20世紀から現在までを見ても、数多くの名優、スター俳優がこの悩めるデンマーク王子を舞台や映画で演じてきた。ジョン・ギールグッド(1930)、ローレンス・オリヴィエ(1948, 映画)、リチャード・バートン(1964)、イアン・マッケラン(1970, テレビ映画)、クリストファー・ウォーケン(1982)、ダニエル・デイ・ルイス (1989)、メル・ギブソン(1990, 映画)、ケネス・ブラナー(1988, および1996の映画)、イーサン・ホーク(2000, 映画)、ジュード・ロウ(2009)、そしてベネディクト・カンバーバッチ(2015)等々。
またハムレットは人気だけでなく、並々ならぬ演技力を必要とするタイトル・ロールである。有名な映画スターとして知られるようになってからでさえ、ハムレットに挑戦する場合も多い。俳優にとってハムレットを演じるということは、実力の証でもあるのだ。
だが実力があるからといって、誰でもハムレットを演じられるというものではない。大多数の役者はデンマーク王子として“To be or not to be”「生きるべきか死ぬべきか(小田島雄志訳では“このままでいいのか、いけないのか”)」と苦悩する姿を見せる前に、自分の俳優としての存在意義を問いながら、苦悶の日々を送らざるを得ない。カルト的人気を誇るイギリス映画『ウィズネイルと僕』(1988)は、ハムレットの役どころか舞台出演さえもおぼつかない、若く不器用な俳優二人の先の見えない日常を綴った作品である。
ウィズネイルと僕とモンティ叔父さん
1969年、ロンドンのカムデンタウン。ウィズネイルと部屋をシェアしている「僕」ことマーウッドは、冷蔵庫もテレビもないおんぼろアパートでのみじめな毎日を嘆いている。ウィズネイルは生活や社会への不満を毒舌や皮肉で紛らわすタイプの男。二人は1960年代末の新世代の苛立ちを代弁している存在でもある。都会での生活に行き詰った2人はウィズネイルの叔父モンティを頼って田舎のコテージを借りて暮らそうとする。この叔父も若い頃は俳優を目指していた。彼はグラスを手に二人に過去の苦い経験を語り始める。
「ある朝、目覚めて現実に気づく。自分がハムレットを演じられる日は来ないと。そう思った瞬間から野望を持てなくなる。」
“It is the most shattering experience of a young man's life when one morning he awakes and quite reasonably says to himself, "I will never play the Dane." When that moment comes, one's ambition ceases. Don't you agree?” <引用はDVD字幕より>
すると彼は、デンマーク城の歩哨マーセラスのせりふを朗唱し始める。
「“霊は消えた。横柄な態度がよくなかった。武力を見せつけるとは。”」
“It's gone. We do it wrong, being so majestical. To offer it the show of violence...”
引用は『ハムレット』第1幕第1場で亡霊が消えた直後のせりふ。このせりふを朗唱できるという事は、若い頃に演じた役がマーセラスだったからなのだろう。マーセラスは第1幕の2場、4場、5場の亡霊登場に関連した場面にのみ登場する端役である。だがモンティ叔父さんは、文学の素養があるオックスフォード大学出身のインテリでもある。田舎のコテージの場面では、アルフレッド・テニソンやボードレールの詩まで朗誦している。旧世代のエリートを代表するこの老人の詩人気取りの言葉は、英国における一つの時代の終焉を象徴している。
「私は腫瘍にむしばまれて死ぬかもしれない。(2人の手を取る) 今我々は時代の終わりを迎えている。」
“And soon, I suppose, I shall be swept away by some vulgar little tumour. Oh, my boys, my boys, we're at the end of an age.”
このモンティ叔父さん役のリチャード・グリフィス(Richard Griffiths)は、ハムレットこそ演じたことはないものの、若い頃は英国のロイヤル・シェイクスピア・カンパニーで『夏の夜の夢』のボトムや『ヘンリー八世』の国王を演じ、テレビ映画版『ウィンザーと陽気な女房たち』(1982)ではフォールスタッフを演じている。2001年からは「ハリー・ポッター」シリーズでハリーを冷遇するバーノン・ダーズリー役で出演していた(2013年没)。代表作はローレンス・オリヴィエ賞やトニー賞で主演男優賞を受賞した『ヒストリー・ボーイズ』(2004)のゲイの教師へクター役である。
グリフィスは『ウィズネイルと僕』でもゲイの叔父という役柄で、マーウッドは彼に気に入られてしまい、田舎のコテージで安心して眠ることすらできない。気弱なマーウッドの情けないほどに怯えた様子がユーモラスで、何事にも動じない皮肉屋のウィズネイルとのコントラストも面白い。この二人が田舎でも食べる物に困って悪戦苦闘する有様も喜劇的に描かれていくなど、映画は終始、適度のユーモアとペシミズムを織り交ぜながら、不器用な二人の珍道中を描いていく。
“僕”に迫るモンティ叔父さん(リチャード・グリフィス)
憂鬱なハムレットのせりふ
映画の終盤ではマーウッドに俳優としての絶好のチャンスが訪れる。エージェントがメジャーな舞台への出演を知らせてきたのだ。彼はウィズネイルを残して新たな生活を送ることになる。ウィズネイルは酒に酔ってウィスキーの瓶を片手にマーウッドを見送る。そして彼が去って一人になると、雨が降りしきる中、酒瓶を片手に憂鬱なハムレットのせりふを語り始めるのだ。(太字は筆者による)
「なぜかは分からぬが、最近の俺は陽気さを失い、明らかに心が重く沈んでいる。この美しい地球も不毛な岬に見えてならぬ。まばゆいほどの天がいも、大気も、堂々と広がる大空も、黄金の炎で飾られた荘厳な屋根も、鼻につく有毒な霧のようにしか思えぬ。人間は見事な作品だ。何よりも気高く、無限の能力を持ち、天使のごとく聡明で、まるで神だ! この世の美であり動物たちの模範である。でも俺には何よりも無価値に見える。男は喜びとならず、女もまた喜びとならない。(第2幕第2場、字幕より)女もまた喜びとはならない。
Withnail: “I have of late, but wherefore I know not, lost all my mirth. And indeed it goes so heavily with my disposition that this goodly frame, the earth, seems to me a sterile promontory. This most excellent canopy, the air, look you, this brave o'erhanging firmament, this majestical roof fretted with golden fire, why, it appeareth nothing to me but a foul and pestilent congregation of vapours. What a piece of work is a man! How noble in reason! How infinite in faculties! How like an angel in apprehension. How like a god! The beauty of the world! The paragon of animals! And yet, to me, what is this quintessence of dust? Man delights not me, no, nor women neither.” …Nor women neither.
苦労を共にしてきた友を失ったウィズネイル。その落胆と俳優として本格的な道を歩み始めない自分の不甲斐なさ。ここでは悲しみと孤独の感情がハムレットのせりふを通して発せられている。
だがウィズネイルは本来繰り返される事のない太字の「女もまた喜びとならない」(“nor women neither.”)という部分を再び侘しくつぶやいて駅の前を去っていく。これはマーウッドのことを秘かにゲイとして愛していたウィズネイルの観客へのカミングアウトと解釈できない事もない。ブルース・ロビンソン監督はインタビューでこの可能性を問われて否定しているし、映画は決してゲイの存在や感情を主題にはしていないのだが、そのような質問があった事もまた事実である。
いずれにせよ、それまでは何事に対しても毒づいていたウィズネイル心の叫びは雨の日の公園に空しく響き渡り、その悲しい余韻がビターなコメディとしての味わいを深めている。これも映画の中でシェイクスピアのせりふが効果的に使われた例の一つと言えるだろう。
「俳優たちのハムレット」
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